きのう,生活圏,コヒーレンス

気付くと,暗い建物の廊下のようなところにいる。
「気付いたから,」と説明した方が正確か。
いずれにせよ,視界は一面の黒に染まり,両足が地面についている感覚だけがある。


この消え入りそうな世界の中でも,体はいたって普通に動くはずだ。
だらんと下がっていた右腕を,ほら,前方に。
ただし,視界に変化はなく,腕が風をきった感覚もない。


そのまま右腕で,何も見えていない両目を覆い,擦るようにしてから腕を下ろす。
残念ながら,まるで目を閉じているままのように変化はない。
おまじないとはいえ,これで結構見えるようになったりすることもあるんだけど。


歩き出すことはできるが,上げた足が再びつく保証はない。
経験則として,世界が不確かなときは,まず私が確かになるべきだ。
私は世界。世界は私。


左の手首を右手で掴んでみる。
掴む感触,掴まれる感触。
足の裏に加えて新しく2箇所,存在感が得られた。


ブラックアウトの危険は減ったと考えてよい。
この存在感を頼りに,一歩ずつ進んでいく。
言葉通りの意味で世界に奥行きが出る。


……。
……。
……。


かすかに明るくなる。
外から光がさしてきたようだ。
いや,私は外に出ていた。


そのとき,ふわっとして,右足は宙を蹴り,左足もつかなくなった。
見えるのは人のいない住宅街。背中が暖かい。
右手で左手を掴んでいる感覚はそのまま。


最初から重力がおかしかったような気がする。
世界に身をゆだねる。夜明けのようだと思っていたのに,嘘みたいに明るくなった。
風景がゆっくりと流れ,遠ざかる。