今日の思索#2

題材「正確な内容を話すか正確な印象を与えるか」
最近,原発の専門家についてこういうことが論じられているのを見ましたが,これに直接触れたくないので少し一般化して話をします.当然,正確な内容を話すことと正確な印象を話すことの2つはそれぞれが可能ならば時間さえあれば両立するはずで,どちらに重点を置くかについて.


私は,誤った内容を意図的に話すことが嫌いなため,正確な内容を重視しているのかと思いましたが,話す場面においてはそうでもないようです.たとえば,数学の塾講師として「正確な主張はテキストにあるからそれを見てください.この定理がだいたいどんなことを意味しているかというと」なんて話し方をします.正しい内容を得るより正しい印象を得るほうが難しいと思っているわけです.


もちろん,この話し方が成立するのは,生徒にもともと信頼されている立場だからなのですが,たとえ信頼されてなくても,「高次のコホモロジーが消えただと.これは,君たち『機関』の陰謀に違いない!」なんてことを言い出す人がいない平和な分野なのでよいのでしょう.ということで,発言者が信用されるかということが問題になってきて,疑わない聞き手と正直な話し手ならこんな題材を議論する必要はそもそもありません.


さて,聞き手が話し手を疑う理由を考えてみると,その1つは,他人に説明するときに出会うこの困難を知っていることが原因に思えます(それ以外の理由も,話し手の善意の範囲ではないでしょうか).具体例として,(今話題のあれを避けて)RSA暗号の安全性を挙げてみます.正確な内容を話そうとして,「素因数分解がNP-completeではないと予想されているが」と言うと「安全でないかも」という印象になるので,「P vs NP予想と同じぐらい*1難しい」と有名問題の権威で誤魔化すことが多いように見えます.私はこれに同情しますよ*2


で,今回のような,他人を疑うという発想って汚い発想だと思うけれど,上手く話す努力という少なくとも話し手側からみたら善意の行動が元にもなっていて,汚いとか言っていられなくなります*3.と,弁明しておいて,私は「嘘は言わない」と言いつつも自分の発言の影響を考えて事実を話すか話さないか決める人間です,と懺悔すればいいのでしょうか.

*1:「ぐらい」が割と嘘だよねぇ

*2:「せっかく思いついたアルゴリズムだから安全性に問題があるけれど世の中に広まるといいなあ」ではないのだし

*3:ただし,何も考えずに「科学者のいうことは信用できない」という噂を広めるような人は消えて欲しい