アドバイスが罪,ではなく

論理的な考え方ができるはずの後輩が,ある重要な決断をすることに対しての理由を語っていたのだが,どうにも考えが浅いように思われた。それを私は反射的に指摘しようとして,しかし,何も言えなかったという出来事。

その場での考えは,「先輩という立場を持ったとたんに(求められていない)アドバイスをしたがるのは,罪深い習性ではないか」という雰囲気の理由で「アドバイス」を避けた,だったはずだ。とは言葉にしてみるものの,人から聞いた言論(ここでは「先輩アドバイス罪」)を無批判に自分の行動原理に適用する気質の私でもなく,「個人の感覚を,都合の良い既製表現*1に押し付けると,そうなる」にすぎない。

ここで思い出すのは,ある物語*2の中での登場人物の台詞

人には,いくつもの……別々の人に対しての,それぞれの誠実があるって。

に引き込まれた後,地の文か別の登場人物かが「そんなダブルスタンダードを(後略)」と自明な帰結として述べ,その自明なはずの指摘で(読者の私が)我に返った経験。そして,この台詞に込められた感情は簡単に否定されるべきではないと私が信じているのに対して,この台詞だけを切り取ると「典型的*3な不誠実」とみなされるであろうと信じていること。さらには,物語のこの場面で,他の台詞が思いつかなかったこと。

そういった《文脈や発言者の過去を考えれば,そう発言する心情がとても理解できてしまう台詞》に対してどのような立場をとるかを考えていなかった。問題提起をしたは良いものの,日記冒頭の件まで2年以上も現実の具体例に出会わなかった,いや,無視していた,いやいやそうでもない,文脈の存在を信じられるほど(表面的に)不思議な発言には出会わなかったというので正しい。(この意味で「最近の私は他の人をあまり信じることができない」と言うのは,いささか露悪的だろうか。)

後輩の語ったことに対しては,表面的な言葉の上では非合理性*4を《指摘》することはできた。違う理由で似た決断をした人を見ていた私にはその場ですぐに思いつく《指摘》だったし,その《指摘》が論理的に通用することについては今でも疑いはない。

しかし,《指摘》に効果がないことを予想していたのだろう。実際,アドバイスは求められていなかった。「背を押してもらうために相談の形式をとる」ケースは嫌なほど多いだろうが,後輩は「自分は『真実』に気付いたのでこういう決断ができます」という自慢の形式をとっていたように思う。(本人の中では自信があるのだろう*5。その「自信」は「強がり」に聞こえる台詞だったが。)

創作された物語ならば,表面的な《指摘》をいかに超えているかという観点に美しさを求めることができる。一方で,他人事だから美しさを追究することができるとも言える。今回は,私の視点では残念な選択を聞いたのだが,客観的には選択の結論自体は普通のはずだ*6。そんな状況で理由になっていない理由を《指摘》して,選択の本当の理由――もしかしたら,私と相容れない信念を感情的に主張してくるかもしれない――を聞くつもりもない。行間や背景の深さに気付いたことが大事で,気付いた上で無視することもできる。

*1:既製であることより,認知度が高いことが本質的だ。

*2:2011年公開

*3:ダブルスタンダード」という《用語》で問題視できる対象。本来の目的外の《用語》の使用というわけでもない。

*4:「合理的」には「論理的」以外の意味があるので,「非合理」・「不合理」と書く代わりに「非論理」・「不論理」を用いたいところではあるが。

*5:偉そうなことをわざと言うことで罵倒されたかった,という可能性もあるが。

*6:何らかの宗教を信じることが精神の成熟とみなされる世界で,自分と異なる宗教を選んだ,みたいな。

「エビデンス」を作る仕事

魂全体を売る操作は良く知られているが,分割して部分的に売るという操作に拡張して具体例を考察する。

売却と譲渡の比較

そういえば,年賀状を書く時期かもしれない。

例えば,申請書・報告書等を手書きしなければならない場合を嫌に思っても*1友人への手紙を手書きしようと思う人は少なくないだろう。このことは「魂を売る」という表現と「魂を捧げる」という表現の意味の差に見ることができると思う。友情を(時間で)買っているのかという問題はさておき,社会通念として「友情は買えない」ことになっているので,「対価を得ないならば『それ自身が価値を持つ行動』なので尊敬されるべき」という扱いのようだ。「魂」という言葉を「人生における時間」の意味に使うところには飛躍があるし,そもそも,人生における時間からすればほんの一部の時間の扱いを問題としているので「部分的」な売却・譲渡を比較している……少し違うが,『ドラえもん』に身長を売るひみつ道具とかあったなあ。部分的にでも売り続けると終いには全部売ってしまうわけで。

という導入は後付け*2

エビデンス」あるいは proof of work

一部のIT業界では,スクリーンショットを貼り付けることでテストを行った証拠とすることがあるらしい(参考:まとめよう、あつまろう - Togetter)。「スクショ貼りはシステムの品質に貢献しない」といった指摘は理解できるし,「納品先は馬鹿だからスクショでないと分からない」というのももっともらしい。しかし,こういう指摘からはこの慣習がどのような種類の問題であるかは見えてこない。では,なぜ問題なのか。

私の答を要約すれば「魂を切り売りしているから」となる。IT関係なしに*3,誰にでも分かる表現で書ける話だ。

スクショ貼りが支持される理由は,「テストをせずに画面を捏造することは時間がかかるから」であろう。作業に必要な時間を下の表にすると,

  • 0 < c−a ≦ d−b であり,
  • おそらく,a > b であり,
  • 上司(仕事の責任者)が期待することは例えば c < d かもしれない。
正しく仕事をする 不正する
スクリーンショットを要求しない a b
スクリーンショットを要求する c d

対価として何を得たか

表の値について上記条件を仮定すると,c−aの時間を売って信用を買ったことになる。そして,どうやら今回必要とされている「信用」とは,「誤っていたときに責任をとること」への信用ではなく,「決して誤っていないこと」*4への信用らしい。だいたい,責任をとる(ことが可能な)環境では,不正をしてa−bの時間を浮かせる動機*5はないはずで,スクリーンショットは要求されないと思われる。

「責任への信用」と「正しさへの信用」は言い換えれば「人への信用」と「物への信用」だ。被雇用者の立場からすれば,買った「製品(物)への信用」は「自身(人)への信用」を導かない。というのも,スクリーンショットを貼り付ける場合には,短期的にさえ(不正が決して発覚しない仮定をおいてさえ)不正が得しない (c < d) と見なされているから*6

感覚的な表現をすれば,「身を削って」出てきた薄皮を回収され,上ではそれを「印紙として書類に貼り付けるため」に用いている。逆説的だが「身を削っても何も出ない方がかえって,他人に売買される心配はないし,身を削った本人(のa−bの時間)が評価される」状況なのだとしたら残念だ。

どうしてこうなっちゃうんだろう

何かの列に並ぶとき,人々は平等に時間を待つ。これを社会の非効率性だと考えたことは誰にでもあるはずで*7,しかしこの非効率性を無条件に改善する方法がないことも社会で学んだとおりだ。「列に並ぶ」みたいなのは低レイヤー*8での(「社会の仕組み」の)実装方法であって,人々が匿名でなかったり他人でなくなったときはその人間関係を用いてより効率的な実装ができる。例えば,予約して時間を決めたり,「前回に貰ったから今回は譲るよ」みたいにできたりする。

そして,システムの設計者は,存在することになっているレイヤーでの実装ではなく,信じているレイヤーでの実装をする。例えば,学校で通常の配布物回収物は列ごとに配られたり集められたりしていても,試験の時だけは答案を直接集めていたのではないか。

さて,上で議論したスクリーンショットの件は「労働者の代替可能性」の問題だろう。ただし,安い給料で買い叩かれることではない。代替可能であるがゆえに使い捨て可能な形でしか信用を売れず,そのことは社会の非効率を(ゲーム理論的に)必然とする。

「いかなる人間も尊厳のある存在だ」という仮定をおいてさえ,その仮定は高レイヤーで通用する話であって,低レイヤーで可能な操作では人間は分割可能な財と区別がつかない。「魂」と「肉」という用語をこれを表すために濫用すると,高レイヤーで扱うと「魂を(肉と共に)捧げる」ことができるが,低レイヤーでは「肉を分割して売る」ことになり,このとき「肉に沿って削られた魂はどこかへ消える」。予定と少し異なる結論が出た気がしたが,そういえば,「魂を売る」という慣用句で,実際に組織*9が買っているのは「肉」(とその制御権だけとしての「魂」*10)に思われるので何も問題がなかった。

*1:就職活動において履歴書を手書きさせられる問題が有名だが,そのような体験がほとんどないせいで私が説得力ある主張をできるとは思えなかった。

*2:もともとは今年(2014年)の8月に途中まで書いていた内容。最近にもネタにされる(D: 高橋くんの苦悩 - AtCoder Beginner Contest 015 | AtCoder)など公開する機運が高まってきた。

*3:プログラムのテストに割く人力を適切に減らす(ことができる)話はここでは繰り返さない。

*4:「無謬性」って言うんだっけ。

*5:誘因,インセンティブ

*6:雇用主は「正しく仕事をするために捧げられたa−bの時間」の基準となるbを計算する必要すらない。

*7:「まだ開店まで時間があるのに,なんでこの人たちは寒さに耐えているの?」というナイーブな考えを「非効率」という言葉にすることは求めていない。

*8:「低レベル」と書くと誤解を生む気がした。

*9:悪魔が魂を買う場合は知らない。

*10:すなわち元々の信念は捨てられる。

寓話の作風と善悪の自認:性善説・性悪説の対立をこえて

寓意のこもった感じの創作で,人の進むべき道を「善」と定義(呼称)する作風と「悪」と定義する作風があることを最近意識するようになった。さらに興味深いのは,これは単に2派が扱うテーマの「すみ分け」の問題ではなく,2つの作風が同じ道を指し示すことがあることだ。

例えば「己が何を求めているかを自覚せよ」という考え方。

  • 善を勧める作風では「偽善であろうがなかろうが,あなたの心があなたに命じることを,あくまで実行すればいい」のような表現をするし,
  • 悪を勧める作風では「内面化してしまった倫理観を疑い,自身の残虐な欲望に従うことでしか,幸福が得られない」のような結末が語られる。

もちろん,「同じ概念を何という用語で呼ぶか」は究極的には意味がない。例えば,「環」や「代数」と言ったときに,積の単位元を仮定するかや積の可換性を仮定するかは同じ文献の中で整合性をもって使われている限り問題がない。しかし,数論では積の可換性まで仮定することが普通なのに対して関数解析では非可換環が普通となるように文脈によって適切な用語法があったりもする。

「善悪」の定義の議論に戻れば,世間的な善を例にしたい場合は「善」,世間的な悪を例にしたい場合は「悪」と呼ぶのだろう。上に挙げた例では,「人は生まれつき世間的な善悪いずれを求めるか」の問題となるので,

の帰結として作風が勧善*1と勧悪*2に分かれる。この例では性善説性悪説の対立となるが,一般には「『善』になりたいのか,『悪』になりたいのか」という問いだったり,「『善』を名乗りたいのか,『悪』を名乗りたいのか」という選択だったりする。

人に教えを説くために作家が創作をしているとはあまり考えていないので,受け手について議論しよう。創作に対する感想を観察していると,勧善・勧悪いずれかの作風への支持表明と思われる意見を見つけることがある。

  • 勧善作に「この世界に美しい『善』のあり方が残っていて良かった」と言うのは,善を誰かに認められたかったのかなと思うし,
  • 勧悪作に「『悪』を選ぶことが結果的に正しいこの世界を上手に描けている」と言うのは,悪を誰かに許されたかったのかなと思う。

肯定的な感想だけでなく,

  • 勧悪作に「悪を肯定していて気分悪い」としか言わないのは,善であることを誇りにしているのかなと思うし,
  • 勧善作に「そんな善はありえないから」としか言わないのは,悪であることを当然としているのかなと思う。

自認が「善」であるか「悪」であるか。これらは,行動が規範と衝突した際にとる下記の2つの方法に対応している。

「悪い怪獣が暴れていて大変。助けを呼びましょう。せーの,『助けてー,△△仮面ー』」と教育されていた頃には存在したはずの,ナイーブな善人意識はやがて,自らの行いとつじつまがあわなくなる。矛盾を自覚した場合,もし,行動の側で修正することを放棄すれば,考え方を変えるときに2つの選択肢が生まれる。

  • 「善」の概念を再定義する方法,
  • 「悪」を肯定し選択する方法。

繰り返すが,これらの選択肢に本質的な違いはなく,世間的な善から外れた「自分の新しい考え」を「善」と呼ぶか「悪」と呼ぶかにすぎない。

自分で定義した善が他者に認められる可能性にはあまり期待できないし,悪に堕ちたという意識なら免罪符を求めてしまう。そうかといって,一度自覚してしまった矛盾を解消しないのも気持ち悪い。この苦しみから救うのは,

  • 自分の「新しい考え」を追認する物語や,
  • 考えと行いの矛盾を解決する「新しい考え」に導く物語

だろう。つまりは,「同じ考えで良かった」や「思っていたことを上手く言葉にしてくれてありがとう」にすぎないといえばすぎないが,創作の作風が受け手の善悪の自認と一致したとき与える印象は何倍にもなり,信仰心の伴った支持を得られるらしい。

補足1. 相対主義との比較

今回の提案は,「2つの集団が対立しているときに,どちらを善と(もう一方を悪と)標準的に*3定める方法がない」という主張とは異なる(集団ではなく個人の思想について議論しているので)。それどころか,「2つの相反する主張のどちらが善かを標準的に定める方法がない」という主張とも別の観点から見ていて,客観的な「善悪」より,主張を持つ本人視点での「善悪」に興味がある。

補足2. 具体例について

  • 具体的な作品:気が向いたら書く。そういえば,この日記の意味で注目している作家が脚本の映画を近々観に行く予定。
  • 具体的な人:私がどちら側かについては,用語や表記に関して「写像を X→Y と書く(ことになる)のに関数適用を f(x) と書くことにした人は罪深い」というような意見を持っていることから推測できそう。その側と一致する方の作風の方がどちらかと言えば好きだけど,一致しない側の作風はそんなに嫌いではないし,抽象的なレベルで似ているテーマが両方の作風で出てくると翻訳の方法が分かったり理解が深まる印象もあって楽しい。

*1:勧善懲悪とよく言うものの,ここでは「善」の肯定と「悪」の否定を単純に指すこととし,「悪」が懲らしめられる必要はないし「善」が報われる必要すらない。

*2:「悪を勧める作風」を指す。一般的な用語ではないつもり。

*3:本当は “canonical” と言いたい。

脱法ドラッグ新呼称に思うこと

まとめるなら,歴史的に「ドラッグ」の意味する危険性と,レトリックとして「脱法」が暗に示す危険性を諦め,直接的なレッテル貼りに置き換えられたという話。
呼称問題のおこりは,「脱法ドラッグ」と言っても有害さを効果的に伝えられていないことらしい。違法になってくれない以上,取り締まる警察としては次善の手として使わないように呼びかける,というのは分かります。その「脱法」という表現でヤバいと分からない馬鹿につける薬がない,いや,売りつけるヤクがあるのが問題だと。もともとは,密売人が「合法ドラッグ」と宣伝することに対抗するために,「脱法」の名で周知させようとし,「法律が許していても社会とか道徳とかが許すか」をイメージ戦略で争っていたはずなのですが。
さて,新呼称は「危険ドラッグ」だそうです。これを見た私の感想は,日本語としておかしいでしょというか,片腹が腹痛な感じです*1。現在,「ドラッグ」と言えば,薬物のうち有害なもの,もっと正確には「依存性のある向精神薬物であって,社会の合意が得られないもの*2」を指すはずで,ドラッグが「危険」なのは定義から明らかでしょう?
……とだけ書くと,「ドラッグストアは(だいたい*3)薬局の意味」という指摘をする人が現れるのですが,そんなことは分かっています。複合語の意味が元の単語の意味とずれることはよくあり,まあ,私はこの現象が気持ち悪いので,この例だと「薬局」としか言わないようにしていますけど。
一応,「ドラッグ」の方の意味についても議論をしておきましょう。言葉の意味の歴史みたいなのを調べることができなかったため,大部分は想像で書きます。和語・漢語では「薬(くすり)」が「医薬品」にかなり寄った表現で,「薬品」は化学で使いそう,「薬物」はあまりそうではない感じ,「クスリ」と書く場合もかなりヤバそうで,「ヤク」と言うときは麻薬類しか指さないあたりでしょうか。言い方がいろいろあるように見えても,表社会が公式に裏社会の言葉「ヤク」を使うわけにもいかないし,「麻薬」は指す範囲が狭そうで困るというので,便利そうなのが英語の「drug」という話になるのは想像に難くないです。
要は,外来語として「ドラッグ」が日本で使われ始めたのは「drug」が「medicine」と住み分けられるようになった後と推測されます。しかし,もともと合成語「drugstore」は英語の「drug」に危険なニュアンスが入る前に作られたと考えられ,日本の「条件を満たさないと『薬局』を名乗れない」問題回避のために「ドラッグストア」を輸入し,調剤薬局を指す「pharmacy」は輸入されなかったのではないかと思われます。つまり,日本語の中での話としては,「ドラッグ」と「ドラッグストア」は最初から異なる目的で使われ,「ドラッグ」は危険薬物の呼称に便利だから普及した(もっと言えば,取り締まる側が普及させたのかもしれない)と考えられるにも関わらず,今回の新呼称は「ドラッグ」で危険性を意味するのはやめますという,時代逆行な雰囲気を出しています。
そんなに「ドラッグ」が危険に見えないという判断なのかと思うものの,ありえなさそうな例ですが,売人が「ドラッグ怖くないよ。『ドラッグストア』の『ドラッグ』だよ。安全だよ」みたいに言ってきたのに騙される人が問題なのであって,そういう人は「『脱法』って言うけどそれってつまりは『合法』でしょ」で一発で騙される気がします。逆もそうで,「脱法」で分からないと,「ドラッグ」でも分かるか怪しい。
だから,騙されやすい人には「ふぇぇ? 『合法』でも『ハーブ』でも『危険』だよぉ」と悪を撃退していただくのが社会のために良い策となってしまうのも仕方ない感じです。なんというか,「危険と考えさせるにはそのまま『危険』と名付けてしまえ」なんてナイーブな方法がかえって上手くいく*4世界。単に「危険」と言うだけだと,「日光の当たる場所で保管すると薬の成分が変化して『危険』」というのと区別つかないので,本当は「なぜ危険か」に踏み込んだ名前にしてほしい,以前から言われる「乱用薬物」のほうがよほど(脱法のものも含め)正しく表せるのになと思いますが,「乱用しなければ大丈夫」に簡単に騙されそうで駄目ですね。
新呼称公募をする時点で「我々に必要なのは『正しい』テクニカルタームではなく効果的な宣伝文句だ」という話のようでした。それに続く今回の新呼称決定について,「馬鹿*5に説明するのは無駄」という結論を厚生労働省警察庁が出したという見方を私はします。

*1:片腹痛いの語源は「傍(かたは)ら痛し」らしいですよ。

*2:アルコールとカフェインを除くための措置。

*3:日本の法律では区別されるらしい。

*4:「『危険』と名付けられているが本当に危険なのか」と疑える知性のある人を保護する必要はどうやらないみたいだ。

*5:今回はドラッグを使用する人たちを相手にしているのだから。

沈黙はいつも金

「沈黙は金ではなく死です」と言い放つ先輩を見ていると,伝統的な価値観は意外と簡単に否定されてしまうのだなと感じる。もっとも,私は「沈黙は金」派だったのでイラッとしてしまっていた。なぜ先輩は,単に「沈黙は死」とは言わなかったのだろう。この疑問に対する答を,先輩の「伝統を守る立場を表明するときよりも壊す立場のときに声が大きくなる」癖だと推定した。もしかすると,昔は私よりずっと旧習にとらわれていたのかもしれない。
話題が「研究発表の質疑応答」なのだから,質問に黙っていて何かが良くなるなんて思ってはいない。沈黙の罪の程度が「死」という表現に値するかについても,先輩の経験や知識を信じている。それでも「沈黙は金」を捨てられない。簡単に捨ててしまえるなんて軽率だと思う。
もとの諺は「沈黙は金,雄弁は銀」であって,「沈黙は1番,雄弁は2番」ではない。この諺を「沈黙すべきだ」としてしか使わない人には違いはないだろうが,金銀へのたとえは結構上手いように私には思える。序列以外の意味が諺の意味として正しいかはともかく。
例えば,金は(銀よりも)柔らかい。この万能っぽさは沈黙の性質のようだ。
例えば,銀は悪魔祓いの象徴だ。この強さは雄弁の性質のようだ。一方で,沈黙は美しくも呪われている印象があり,金のイメージに合う。パイレーツ・オブ・カリビアンで呪われているのは金貨だし,ツタンカーメンの金のマスクは埋葬品だ。中つ国のスマウグも金の竜。
こんな連想が働く私にとっては,「沈黙は金だから死」が正しかった。質疑応答の場で求められているものが,貨幣価値ではなく,人類の知識の限界という闇を切り開く試みだったと言えば補足になるだろうか。質問者と発表者の間に立つ理解の壁という悪魔に銀の弾丸を撃ちこむべきで,金は役に立たないどころか悪魔にのまれるのだろう。
金銀に対して何を思うかは人それぞれだから,私が後輩に伝える言葉では諺を肯定も否定もしたくない。「『沈黙は金』と言うものの,ここでは『沈黙は死』です」くらいが適切かなあ。

遅延評価を活用して線形時間でGoogle Code Jam 2014 Round 1AのB問題を解く

公式の解説で,「遅延評価を使ってもできる」と書いてくれなかったので。
注意:この記事は,Google Code Jam 2014 Round 1AのB問題 Full Binary Tree についてのネタバレを含みます。

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メールアドレス変更の作法

twitter の Direct Message を用いたフィッシングが未だに流行を続けるこの頃,ウェブ上の詐欺に引っ掛かってしまう方々がいかに多いかを実感させられます.さて,最近,どうやら詐欺にあう側が悪いとはあまり思えないのです.

「世の中には詐欺というものがある」と普段認識していますか? 本当に?「詐欺にあうかもしれないと認識していますか」ではないですよ.

例えば,メールを出すとき,それが何かの詐欺と紛らわしくないか注意すべきです.まあ,普段は差出人のメールアドレスでだいたい保証されているので(アカウントを乗っ取られたりしない限り)問題ないのですが,例外があります.メールアドレス変更を知らせる際のメールです.

良くない例1

メールアドレス変更後,新しいアドレスから変更を知らせる

何が良くないかは分かるでしょう.第三者がこの例を装ってなりすますことが極めて容易です.メールアドレス変更の通知を受け取った人は,メールアドレスを変更した人に直接会うか,ウェブの他のアカウントに確認を取るぐらいしか確認の手段がありません.でも,メールアドレス変えて変更通知を送って疲れているはずの人に「確認をとる」なんて手間を増やすなんて,私にはちょっとできません.

まわりの人を見ていると,現実的には次に会ったときに「そういえば,メールアドレス変更したんだって?」と話題にするぐらいの対応がされているようです.メールアドレス変更通知を受け取ったすぐに,古いアドレスのデータを消してしまう人が多いように見受けられますが,それで大丈夫ですか?「メールボックスに残っていないほど最近メールしていない人のアドレスは詐欺で失われてもまあ仕方ない」派なら構いませんが.

良くない例2

メールアドレス変更前に,古いアドレスから新しいメールアドレスを予告する

これも実は駄目です.何故かは自分で考えてみましょう.例1と比べると,メールアドレスの変更を伝える先の人の中に悪意のある人間がいなければ大丈夫ですが.

良くない例3

メールアドレス変更前に,新しいメールアドレス(に salt を足したもの)のハッシュを予告する

これも駄目です.高いコンピュータリテラシーを要求してはいけません.

私が推奨する方法

  1. 準備として,他のメールアドレスを周知しておきましょう.携帯のアドレスを変更する場合はパソコンのアドレスが事前に伝わっていれば十分です.
  2. アドレスを変更してしまいます.
  3. アドレスの変更メールを出す際に,自分の別のアドレスと新しいアドレスをそれぞれ宛先 (To) と差出人 (From) にして,通知する人を Bcc にして出します.
  • 安全性の議論からすると,メールアドレス変更が詐欺だった場合,アドレスを変えたことになっている人が「さっきのメールは詐欺です」と言うことができるので,数日待つだけで誰もが詐欺でないことを確認できます.
  • 送信者のアドレスを登録してしまう人が若干数存在するので,差出人を新しいアドレスにするのが良さそうです.
  • また,一斉通知は Bcc で行うという要求と衝突しません.