寓話の作風と善悪の自認:性善説・性悪説の対立をこえて

寓意のこもった感じの創作で,人の進むべき道を「善」と定義(呼称)する作風と「悪」と定義する作風があることを最近意識するようになった。さらに興味深いのは,これは単に2派が扱うテーマの「すみ分け」の問題ではなく,2つの作風が同じ道を指し示すことがあることだ。

例えば「己が何を求めているかを自覚せよ」という考え方。

  • 善を勧める作風では「偽善であろうがなかろうが,あなたの心があなたに命じることを,あくまで実行すればいい」のような表現をするし,
  • 悪を勧める作風では「内面化してしまった倫理観を疑い,自身の残虐な欲望に従うことでしか,幸福が得られない」のような結末が語られる。

もちろん,「同じ概念を何という用語で呼ぶか」は究極的には意味がない。例えば,「環」や「代数」と言ったときに,積の単位元を仮定するかや積の可換性を仮定するかは同じ文献の中で整合性をもって使われている限り問題がない。しかし,数論では積の可換性まで仮定することが普通なのに対して関数解析では非可換環が普通となるように文脈によって適切な用語法があったりもする。

「善悪」の定義の議論に戻れば,世間的な善を例にしたい場合は「善」,世間的な悪を例にしたい場合は「悪」と呼ぶのだろう。上に挙げた例では,「人は生まれつき世間的な善悪いずれを求めるか」の問題となるので,

の帰結として作風が勧善*1と勧悪*2に分かれる。この例では性善説性悪説の対立となるが,一般には「『善』になりたいのか,『悪』になりたいのか」という問いだったり,「『善』を名乗りたいのか,『悪』を名乗りたいのか」という選択だったりする。

人に教えを説くために作家が創作をしているとはあまり考えていないので,受け手について議論しよう。創作に対する感想を観察していると,勧善・勧悪いずれかの作風への支持表明と思われる意見を見つけることがある。

  • 勧善作に「この世界に美しい『善』のあり方が残っていて良かった」と言うのは,善を誰かに認められたかったのかなと思うし,
  • 勧悪作に「『悪』を選ぶことが結果的に正しいこの世界を上手に描けている」と言うのは,悪を誰かに許されたかったのかなと思う。

肯定的な感想だけでなく,

  • 勧悪作に「悪を肯定していて気分悪い」としか言わないのは,善であることを誇りにしているのかなと思うし,
  • 勧善作に「そんな善はありえないから」としか言わないのは,悪であることを当然としているのかなと思う。

自認が「善」であるか「悪」であるか。これらは,行動が規範と衝突した際にとる下記の2つの方法に対応している。

「悪い怪獣が暴れていて大変。助けを呼びましょう。せーの,『助けてー,△△仮面ー』」と教育されていた頃には存在したはずの,ナイーブな善人意識はやがて,自らの行いとつじつまがあわなくなる。矛盾を自覚した場合,もし,行動の側で修正することを放棄すれば,考え方を変えるときに2つの選択肢が生まれる。

  • 「善」の概念を再定義する方法,
  • 「悪」を肯定し選択する方法。

繰り返すが,これらの選択肢に本質的な違いはなく,世間的な善から外れた「自分の新しい考え」を「善」と呼ぶか「悪」と呼ぶかにすぎない。

自分で定義した善が他者に認められる可能性にはあまり期待できないし,悪に堕ちたという意識なら免罪符を求めてしまう。そうかといって,一度自覚してしまった矛盾を解消しないのも気持ち悪い。この苦しみから救うのは,

  • 自分の「新しい考え」を追認する物語や,
  • 考えと行いの矛盾を解決する「新しい考え」に導く物語

だろう。つまりは,「同じ考えで良かった」や「思っていたことを上手く言葉にしてくれてありがとう」にすぎないといえばすぎないが,創作の作風が受け手の善悪の自認と一致したとき与える印象は何倍にもなり,信仰心の伴った支持を得られるらしい。

補足1. 相対主義との比較

今回の提案は,「2つの集団が対立しているときに,どちらを善と(もう一方を悪と)標準的に*3定める方法がない」という主張とは異なる(集団ではなく個人の思想について議論しているので)。それどころか,「2つの相反する主張のどちらが善かを標準的に定める方法がない」という主張とも別の観点から見ていて,客観的な「善悪」より,主張を持つ本人視点での「善悪」に興味がある。

補足2. 具体例について

  • 具体的な作品:気が向いたら書く。そういえば,この日記の意味で注目している作家が脚本の映画を近々観に行く予定。
  • 具体的な人:私がどちら側かについては,用語や表記に関して「写像を X→Y と書く(ことになる)のに関数適用を f(x) と書くことにした人は罪深い」というような意見を持っていることから推測できそう。その側と一致する方の作風の方がどちらかと言えば好きだけど,一致しない側の作風はそんなに嫌いではないし,抽象的なレベルで似ているテーマが両方の作風で出てくると翻訳の方法が分かったり理解が深まる印象もあって楽しい。

*1:勧善懲悪とよく言うものの,ここでは「善」の肯定と「悪」の否定を単純に指すこととし,「悪」が懲らしめられる必要はないし「善」が報われる必要すらない。

*2:「悪を勧める作風」を指す。一般的な用語ではないつもり。

*3:本当は “canonical” と言いたい。