今日の思索#7
「無意識に仮定している主観確率」
確率とは(「そもそも,」というレベルでは)主観的なのか客観的なのかについての議論はしません.文章を書くのに時間を要して「今日の」思索でなくなっています.
具体例を挙げないと書きようがないので,例えば,次のようなことが起こったとしましょう.
友人1人と,自分と相手どちらに責任があるわけでもなく仲が悪くなってしまった.後に,その(友人だった)人が,以前から友人とするに値しない人間だったことが分かった.
これに正確に感情移入することは難しいですが,落ち着いて考えます.
- まず,友人を失った直後にはそのことを惜しく思うでしょう.
- 次に,知識が増えた直後には失った友人の価値は小さかったと考えるでしょう.
「これ以上,何も考えない」というのは,強い人か,感情移入できていない人です.あえて断定します*1.
- 友人とするに値しないと分かったのは正しい見方なのか,と考えるはずです.
ここでは,これを問題にはしません.正しい見方であると確認できたと(いう仮定を追加)します.「以前から〇〇する*2人間は他に何を差し引いても死ねば良いと思っていたし,それを自分の行動の規準にしてきた」のように.
ようやく,客観的に考えて「その友人を失ったことは私にとって何の問題にもならないことだった」ということが確定します.さて,さらに「仲が良いままであったらその人の人間性に気づけなかったかもしれない」ということもあり,むしろ運が良かったとすら考えられます.ここまでの話を抽象化して書くと,塞翁が馬*3,とは少し異なり,
過去の出来事について,
- ある時以前の知識では不運なことであり,
- ある時以後の知識では幸運なことである
という状況です.上記の例で納得できない方は別の例*4をお考えください.
そういった条件をみたす「過去の出来事」を受け入れられるかということを考えると,どうしてか受け入れられません.さっきの例だと「仲違いせず,かつ,相手が良い人間だったら良かったのに」と考えてしまいます.何故このような不可能なことを望んでしまうのかと(私自身の心の)理解に苦しむのですが,まるで,私が観測したために真実が確定してしまったと考えているかのようです.日常的な物の観測で量子論が影響するなどと考えている不勉強な人では私はありません.おかしいでしょう?
受け入れられない理由の感情が後悔ではありません.後悔*5ならば,現実より上手くいくはずの行動があるはずなので.ということは感情は受け入れられない原因を私の外部に求めている,すなわち,「不運だった」と扱っているわけです.これは主観確率の考え方です.「知ってしまったら以前の自分には戻れない」という問題と統一的な議論ができるかは怪しいところ.
こういう場合に「今考えれば,そのことは幸運なんでしょ.それならいいじゃん」なんて言葉をかけるのは間違っている,と思うのですが,こういう見方の方が理性的なんですよね.なんかこの日記を書いてたら受け入れられるようになってきた気がします.