証明を求む

箱根駅伝2区,「権太坂を上りきった後,下りと平坦な場所で勝負をかけます」のように話していた選手の映るテレビを観ていた私は,一昨年に読んだ文章をしっかり覚えていることに気付いた。

その文章とは,村上春樹が2013年ボストンマラソンテロをうけて書いたもの(Boston, from One Citizen of the World Who Calls Himself a Runner)。「ボストンマラソンについて,難所として有名な坂を走っているときが苦しいと思われるのに反して,その後の平坦な区間を走り始めた時に本当の苦しさに襲われる」という話がたとえとして出てくる。

テロのような激しい例に限らずとも,トラウマとなる事件を「乗り越える」のではなく「受け入れる」*1ことを勧める小説や評論は頻繁に見かけていたのだが,この文章に出会う前は言葉遊びにすぎないと思っていたはずだ。なぜか。

  • 登場人物が決め台詞として「乗り越えるんじゃなくて受け入れるんだ!」と叫び,それによって困難があっさり解決してしまう。あるいは,
  • インタビューの長い回答のうち「その事故を受け入れるまで時間がかかりましたが,そうしないと前に進めないのですね」のような部分だけ載せる。

こういう説明不足が多い。考えたことを最もよく表す単語を1つ選ぶだけで考えが伝わると勘違いしているのだろうか。しかも,結論のみで理由が理解されると読者を過信しているのだろうか。

すなわち,《定理》を《定式化》*2して《証明》をつけることをしていない文章が多いように思う。

すでに挙げた村上春樹の文章では,《定式化》については,事件に向きあうことが何にまさるのか(“[h]iding the wounds”, “searching for a dramatic cure”, “[s]eeking revenge” が本当の解決にならない)や,時間がかかることの「時間」とは何なのかに言及がある*3。そして何より,《証明》として,「傷はすぐに消えないし,見かけより後に困難がある」という《補題》を経由しマラソン自体にたとえているのが素晴らしい。長距離走が学校の体育以外に経験ない私が納得するくらいに,たとえは機能している。

ところで,「私と仕事のどっちが大事なの」に対する正しい応答が「そんなこと言わせてごめんな(ぎゅっ)」であるという《定理》はあまりに有名だが,ステートメントが面白おかしいせいで,《定理》だけ(いくつものパロディによって)有名となり,《証明》の議論はめったに見られない*4。念のため証明のスケッチを書いておこう。

  • 「疑問文に形式的に答える必要はないし,答えないことが相手との対話の拒絶を意味するとも限らない」のような基本定理があって,その系としてだいたい示せる。とくに,「君」とか「仕事」とか答える必要はない。(ちなみに,「学会発表では yes/no 疑問文には yes/no で答えましょう」と言われて,「なぜ大学生にもなってそんな自明な注意をされないといけないんだ」と不思議に思うとこの基本定理に気付くことができる。手遅れ感にあふれる気付き方だが。)
  • このケースで「私と仕事」の二分法は悪い手法の用いられた疑問文だ。しかし,それ以上に相手を信頼しているのであれば,悪い手法に走った相手の心情を考えるべき。つまり,普通の信念*5のもとでは「罪を憎んで人を憎まず」を適用すべき事例だ。とくに,相手に腹を立ててはいけない。
  • 相手は「私」と「仕事」のどちらも大切であることを分かった上で言っているので疑問文の形式的な回答を求めていない。
  • 回答を求めていない疑問文を発するほどに相手は錯乱しているので論理的な説得は無意味。とくに,(ぎゅっ)


うーん,飽きてきた。でも,最初にこの《定理》を知った人にはこれくらいの《証明》が必要だと思う。《証明》を書けば,用いた仮定も分かるし。さて,この《定理》の《証明》を綺麗な物語として書けるかというと,今のところ私には無理だ。

実際,《定式化》や《証明》を文章の格好良さと両立させるのは難しい。これが第1の「《定理》だけ書かれる」理由。第2の理由は,《定式化》しなければ細かな宗派争いを回避できて共感を得やすいため(もちろん《定式化》できてないせいで《証明》に書くことも無くなってしまう)。第3の理由は,他人から《定理》を教えてもらったが《定式化》も《証明》も理解していないから。

私の場合は,理解できていない《定理》を持ち出されると結構つらい気分になる。だからといって,一度《証明》を理解した《定理》については,《証明》の省かれた文章を許せるかというと,そうでもない。別の《証明》も知りたいし,漏れも無駄もない《定式化》をしたい。そんなときに《定理》だけが書かれていると――文章としていくら格好良くても――「分かっている人同士の答え合わせ」になるか「絵に描いた餅」になるか「張子の虎」になるかだった。その3つのうちどれであるかの分類までもできるような気もするが,はたして。

《定理》をちゃんと理解していないであろう第3の理由はかなり罪深いように見えるものの,ありふれた現象らしい。そして力を持つ。差し障りの少ない例を1つ挙げると,「べ,別にあんたのことなんか興味ないんだからね」と言うヒロインは主人公に興味あるという《定理》は有名になりすぎて《公理》になってしまった。《定理》だった頃には,ちゃんと《定式化》すると「『ツンデレ』とは何か」のような複雑な条件が課されていたかもしれないが,《公理》となった今は無条件で「そう言う人は相手が気になっている」と見なされている*6

*1:「受容」を意識して「受け容れる」と書くのはあまり趣味じゃない。

*2:formalize

*3:とはいえ,《定式化》できているかは足切りでしかないとも思う。

*4:あまりにも具体的な《定理》なので《定式化》に問題はないだろう。

*5:《証明》などのシリーズにあわせると「一般的な《公理系》」と書くべきか。

*6:ツンデレ」の公理化により特定の文「勘違いしないで」などを言いにくくなった問題に対し,望公太『異能バトルは日常系の中で』2巻21ページでは,例えば「思い上がらないで」と言うという手法が提案されている……ように見えるが,(メタには)語彙によらないツンデレ像が追求されている気がする。